ヴィーガンというマイノリティの合理性と道徳性

最近、ヴィーガンと変容的経験というテーマで論考を書いた。いずれ出版されるはずだが、ここでは、その論考を書くにあたって考えていた背景を書きたい。

論考の内容は次のとおりである。ヴィーガンになることはマイノリティになることであり、またそれは変容的経験を伴う。変容的経験とは、その経験の内容をまったく予想できず、またそうした経験をするともう元には戻れない、そういう経験のことである。

変容的経験については、以前に以下の記事、およびその記事のもとになっている論文を書いているので、ご参照いただけると幸いである。

gendai.media

doi.org

 

私の論考では、まず、ヴィーガンが様々な不利益や差別、否定的偏見を被ることを論じ、ヴィーガンが社会的にマイノリティであると主張した。また第二に、そうした経験は独特なものであり、ヴィーガンになる前からは予想もつかないので、変容的経験である、と論じた。

変容的経験が哲学研究で議論される場合、その主流のテーマは合理性である。議論は次の通りである。変容的経験は、まさにやってみるまでわからない経験である。自己利益を最大化しようとする合理的主体は、変容的経験を合理的に選ぶことができない。なぜなら、まさに、変容的経験によって自己利益が最大化されるかどうかがわからないからである。さらに問題なのは、より深い変容的経験(個人的変容)では、自身が何を望み、何に価値を見出すかも根本的に変化する。しかしその変化は予想できない。そのため、この点でも、自己利益を最大化することができない。よって、合理的な選択ができない。

私は論考において、ヴィーガンになることはマイノリティになることであり、様々な文脈で不利益を被ることになる、と論じた。他方で、ヴィーガンになることは変容的経験であり、なる前には予想できない経験である。しかし、このケースでは、明らかに不利益を被ることが予想できるので、変容的経験であるにもかかわらず、合理的選択が可能である。しかしこの「可能である」というのは悲しく響く。なぜなら、不利益を被るので、ヴィーガンになることは、自己利益の観点では、むしろ不合理な選択であるからである。

さて他方で、ヴィーガンになることには様々な道徳的理由がある。直接的には動物搾取への加担を避けることにあるが、しかし、ヴィーガンになることそれ自体が道徳的に重要なこともある(その内容は、拙論が出版されたならご参照いただきたい)。そのため、ヴィーガンになる道徳的理由がある。

以上の議論からは、合理性と道徳性が衝突していることが導かれる。すなわち、ヴィーガンになることは不合理だが、道徳的である。

 

この論考を友人らに見せてフィードバックを得たとき、文字数を減らさなければならないのもあって、合理性の部分を大きく削ることを何人からも推奨された。不合理だという結論を導くと、逆にヴィーガンになる理由を削ることにもなるし、ヴィーガンがマイノリティであるなら、そんなことは自明だから論じるまでもないだろう。

しかし、この論考での私の目標の一つは、実はまさにその不合理さを示すことにあった。ヴィーガンになることは、自己利益の観点では明らかに不合理だ。社会的選択のほぼどんな文脈でも不利益を被る(食事の文脈だけではない!)。そんな不合理な選択なのに、それでも選ぶというこの愚かさを示したかった。なぜこんなに苦しいのにヴィーガンを続けなければならないのか。SNS上ではバカにされ、対面でも質問攻めに合い、揶揄され、かといって孤独に暮らすことは社会変革につながらないので、攻撃にあう社会に出る必要がある。それにもかかわらず、結局、私1人が変わったところで社会は変化しないし、動物搾取の量も質もほとんど変化することはないだろう(私はこれを否定する議論をしようと思っているが、それはまだ未完である)。こんな生活を続けていることがバカバカしく思えてくる。

しかし同時に、この愚かさが、ほとんど道徳的理由にのみ駆動されている、ということも伝えたかった(拙論では倫理的ヴィーガンに限定して議論している)。「なぜこんなに苦しいのにヴィーガンを続けなければならないのか」という問いへの答えははじめからでている。非ヒト動物のためである。だから、この問いは不条理さを表現するだけである。この不条理さを、私は論考で示したかった。

ただ、私はこういう内容を学術的な文脈に載せるのが下手くそらしく、うまく伝えられなかった。ということで、ここにその背景を記しておきたかった。

 

最後に、嬉しい経験もある。私の友人はみなとても優しく、配慮のある人たちで、私が食事の場面で困っていたり、あるいはそれが予想されるときに、配慮してくれるし、助けてくれる。それを当たり前だよって言ってくれる。本当に素敵な友人たちで、私は恵まれていると思う。私も、誰かの素敵な友人になれたらと思う。